岩木先生語録・お人柄・エピソード集 / Episodes

語録(その1)
「イオン注入は入れ墨」
表面の改質法は種々存在するがほとんどが表面上の改質である。
たとえるとこれは女性のお化粧に似ている。
イオン注入による改質は表面から母材の一部まで、いわゆる表層改質でたとえると、入れ墨のようなものである。

講演記録・随筆
「3人に2個のオレンジ」
人間に幸福をもたらし,もたらし続けるはずであった科学技術によって,人類存続への危機が生じている。化石燃料の燃焼による大気汚染と資源の枯渇,油流失事故などによる海洋汚染,核エネルギー利用による放射線被曝,様々な産業の展開による南北間の軋轢など数え上げればきりがない。どれをとっても難問である。持続可能な社会の建設へ向けての科学技術の構築が叫ばれる昨今であるが,そのような科学技術を人間性より経済性が優先される社会の中で構築することは並大抵の努力では叶いそうにはない。

そもそも科学とは,広辞苑によれば,「世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象または方法によって種々に分類される。通常哲学とは区別されるが、哲学も科学と同様な確実性をもつべきだという考えから科学的哲学とか、哲学的科学という用法もある。狭義では自然科学。」と説明されている。科学の対象は世界の一部分である。世界の様々な"つながり"を切り裂いて,一部分を抽出した対象に対する合理的認識である。したがって,得られた合理的認識を単に寄せ集めるだけでは元には戻らない。持続可能な社会の建設のための科学技術は,これまで切り捨てられてきた"つながり"を中心に置くところに生まれるのではないだろうか。

日本語の科学の語源に立ち返ってみよう。奥山氏によれば福沢諭吉による「一科一学」、あるいは西周による「百学連環」に関連して「百科の学術」の縮小語として用られ始めたようである。「学問のすすめ」には,「学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押さへ、其事に就き其物に従ひ、近く物事の道理を求て今日の用を達っすべきなり。右は人間普通の実学にて、云々」とある。このように、科学という言葉が学問のすすめにある「一科一学」から派生したものならば、科学とは科目別学問、学域別の学問ということになる。

いずれにしても,科学者が携わる科学の研究は「世界の一部分」を対象としており,この「対象」のみならず「方法」によって種々に分類されてきた。文部省の科学研究奨励補助金の分類は、分科にして60以上、170 以上の細目に分けられている。大学の講座制も学会も同様に分類され、分科の中で決められた手法で徹底的に研究するということが行われてきた。奥山氏はこれを日本の「科学」の特質と指摘している。学問のすすめにある「実事を押さえ」や「実学」という言葉そのままに科学を進めてきたと言ってよいだろう。この方向を経済性優先から人間性優先に変えなければ,持続可能な社会建設のための科学技術の構築は難しいだろう。現在,大学においては学科の統合や新しい学科が創設されているが,この改革により"つながり"を重視し,全体性が見渡せる科学者が育成されることに期待したい。

 平和学者であるガルトウング博士が高校生相手に次のような質問をした。「君たち3人に2個のオレンジが配られたら,君たちはオレンジをどうするか」。皆で3等分に平等に分ける。2人で食べる。独り占めする。皆にあげる。植えて育てて将来に残す。様々な答えがでたようだ。我々大人は,そして科学者は,即座に,どのように答えるだろうか。科学技術の役割は何であろうか。


お人柄

岩木正哉さんを偲ぶ

2007 年1 月30 日、あれほど元気で活躍された岩木さんが闘病の末なくなられた。深く哀悼の意を表します。

「イオン注入技術で材料表層の改質を行う」。そんな発想を持った岩木さんとの結びつきが出来たのは、1977 年頃、故吉田清太、難波進、玉虫伶太の主任研究員の方々の新分野への期待によるものであった。当時はイオン注入が半導体への不純物ドーピングに使用された草創期であり、それが今日の半導体産業の基幹技術となったことには目を見張る。しかし、広範な材料の特性改善にイオン注入の可能性を探ろうという発想は、さらに斬新なものであった。

その後岩木さんを中心にした自由なグループは、企業や大学からの参加者も含め発展した。表層改質の対象となる材料として、鉄を起点として、各種金属、炭素材料、さらにセラミックスやプラスチックへと進み、今日の鈴木を中心とする人工臓器材料に至り、人の治療に資するものとなった。

当時、高橋は基礎電気化学の研究に携わり、鉄材料の電極特性を調べれば、鉄表層へのイオン注入効果が見えるはずだ。そんな思いで岩木チームに参加した。鉄へのチタン注入炭素注入などで不思議なアノード溶解抑制効果(防食効果)や耐摩耗性を見出した。当時の常識を越える多量注入によって、どんな化合物が生成するのかが問題視され、岩木チームは世界をリードするデータを積み重ねた。炭素材(ダイヤモンドやグラファイト)へのイオン注入によって共通した特異なアモルファス炭素を生成することは、振り返れば大発見であった。論文等でその重要性を充分に主張できなかった点は残念な記憶である。現在のダイヤモンドライクカーボン技術の隆盛の基礎を岩木さんが生み出していたことになる。

イオン工学の岩木と、電気化学の私のような異分野の研究者が、組織ではなく興味で結びつくことの出来た理研の風土に感謝している。それにつけても、基礎から応用、物理から化学までの広い視野、産業界との利害を越えた付き合いに長け、「役に立つ研究」という哲学を持った岩木さんを失ったことは悲しい。

高橋勝緒





岩木さんとの最初の出会いは今から約20 年前である。Tシャツに短パン、頭に手ぬぐいを巻いていた。とても先生と呼べる格好ではなかった。それ以来「岩木さん」と呼んでいた。岩木さんの若い頃はとても面倒見の良い人で、多くの若手研究者を育てた。私は英語論文の書き方を教わり、数々の国際会議へも発表させていただいた。外国に行っても岩木さんはなぜか必ず日本料理屋を探して週に何回か日本料理を食べていた。岩木さんは時々多くの人間がいると鎧を着て戦うことがある。大喧嘩もしたが、2人で話をすると人間味あふれるとても優しい人であった。特に初対面の人と会うとき、相手をすぐ緊張感から解き放たせ、会話に豊かさを加えた。研究以外でも岩木さんからは人生の技を学んだ。発病前は、岩木さんはセンター長という職で多忙を極めていたので、岩木さんが定年後、ゆっくりといろいろなことを教わろうと思っていた。今は叶わぬ夢となってしまった。

鈴木嘉昭





岩木先生は大変気さくなお人柄で、誰にでも‘相手の目線に立って’お話をされ、研究員のみならず、事務方の職員からパートの女性にまで、先生のファンはたくさんいました。

私は「先端技術開発支援センター」が発足した平成15年から秘書になりましたが、それ以前も平成9年から振興調整費「3次元電子顕微鏡の研究開発」のお手伝いをさせていただき、5年間のプロジェクト期間中に教えていただいたことは沢山ありました。元来、正義感の強い先生でしたので、予算を獲得したからにはその成果を社会に還元しなければならないという信念がありました。参画企業、及び大学との密な連携の結果、課題終了時には高い評価を頂くことが出来ました。私が携わった課題の中では一番団結して成果を出せたプロジェクトだと思っています。

岩木先生には、人の能力を伸ばす不思議な才能がありました。どんな人でも岩木先生の側で仕事をすると、その人の良い特徴が伸びます。意欲があれば何でもやってみなさいとおっしゃり、頑張る人を見ると自分のことのように喜び、共に成果を分かち合うことをこの上なく幸福に思うのです。共同研究先の企業に視察に行かれた時のことですが、素晴らしい技術に感動すると、先生は理研にいる私に「濱ちゃん、こんなスゴイ技術があるんだよ!」と嬉しそうに電話くださったこともありました。

ちなみに、岩木先生は歌もお上手で、カラオケ十八番は「マドンナたちのララバイ/岩崎ひろみ」でした。



人と人のつながりの中で最も尊いもの、それは…“師弟”。
ひたすら弟子の成長と社会貢献への活躍を祈る師匠と、師匠の慈愛に見守られながら、師匠の思いに応えんがために、ひたすら弱き自己と闘い、使命を果たしゆこうとする弟子。
私にとっての人生の師匠は、池田 大作 先生(創価学会インターナショナル会長)である。二十歳で出会うべくして出会って以来三十七年、“苦難と立ち向かう力”を身につける方途を示していただき、また、“人々や社会のための学問という使命と責任”を与えていただいた。私は、これを支えに、科学者として、一人の人間として、負けない人生を歩んでくることができた。
仏法を持(たも)った縁(えにし)で釈尊が説いた“師弟”を知り、池田先生という人生の師匠と出会えたことは、私の最大の誇りである。

2005.1.1



エピソード集

誰とでもすぐ親しくお話ができ、とけ込める:居酒屋で岩木先生の仲間と一緒に飲んでいた時、岩木先生は気が付くと隣の別のグループにいつの間にか混じっていて、親しそうに歓談をされている。以前のお知り合いですか、と聞きますと、そうじゃないよ、今知り合ったんだよ!というお話。それにしても本当の旧友の如き親しさで接されるのは特技?

これからも岩木先生を慕われる多くの方々からのメッセージをお伝えして参ります。



Iwakist Web Siteご担当者様

理研人事部金子さんより、Iwakist Web Siteを教えてもらい、拝見させていただきました。
久しぶりに見る岩木先生の変わらぬ笑顔に、ウルウルしてしましました。
これからも是非よろしくお願いいたします。

岩木先生との思い出ですが、小職が04年3月に理研へ入所し、研究調整部技術展開室へ配属となった最初の仕事、産業界連携制度の事務局でのかかわりでした。
理研の仕事の右も左もわからぬ小職に対し、丁寧にご指導いただいたことを思い出します。
また、ADSCのユニフォームが欲しくて、お強請りにいったところ、快くお譲りいただきました。(04年4月)翌日の一般公開時に着用しようと思って持参していたにもかかわらず、季節外れの暑い日で、終日鞄の中にユニフォームを入れていたところ、岩木先生にみつかり
「なんだ青年、ユニフォーム着てないのか?宣伝にならないじゃないか。」と優しく笑っておられたのを思い出します。

それ以後、ことあるごと(何もなくてもお邪魔したりしていましたが)にセンター長室へお邪魔し、いろいろなお話を聞かせていただきました。
ある日、センター長室へ訪ねていくと岩木先生が「まぁ、座れや、若者。君たち若者が、どう理研を変えていきたいか、話してごらん」とおっしゃったので、そのときの思いの丈をぶつけました。するとこんな言葉をいただきました。
”変化の風が吹くとき ある人は壁を築き ある人は風車を作る”
今でもこの言葉は大事にさせていただいています。

05年の一般公開終了後に、片付け作業をしていると、岩木先生が奥様とお車でお帰りになるところでした。岩木先生から小職に気づいていただき、「よぉ、青年、お疲れ様!」と声をかけていただきました。そして、奥様をご紹介いただきました。その際の岩木先生の笑顔は、いつも理研で見せていたどの笑顔よりも、何倍も優しい笑顔でした。奥様を本当に大切にされている先生の、愛のある笑顔も印象的でした。

私事ではございますが、06年4月から08年3月まで横浜研へ異動となっておりました。その間もADSCユニフォームをずっと着用させていただき、この4月に総務部総務課へ戻ってきたのですが、今でも愛用させていただいております。
これからもADSCユニフォームを、大切に着させていただきたいと思っています。

今後何かご協力ができることがあれば、是非お手伝いさせていただければと思っております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。

小池 鉄兵



岩木先生の技術DNA

岩木先生の技術のDNAは、多くのお弟子さん達により着実に社会に根付いています。技術のみならず、岩木先生に人間として御指導を受けた、さらに多くの方々により、岩木先生の存在は永遠のものとして残されて行くでしょう。


岩木塾について

平成22年2月26日(金)に開催されたシンポジウム:第12回「トライボコーティングの現状と将来」(第2回岩木賞贈呈式)において、「故岩木正哉工学博士への思い」と題して岡部芳雄先生(埼玉工業大学)が触れられています。気さくなお人柄で、いつも熱心なご指導をされる岩木先生の姿勢は、まさに「岩木塾」と言えるものでしょう。

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E-mail: adsc@e-shg.net



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